6話面白かったですね
5話はつまんなかった(途中眠くなったし、正直大丈夫かと困り果ててた)
日によってかなり偏りがある傾向ないですか?
記憶喪失まで飛び出しちゃうんだから
これはもうマクチャンドラマの上をいくマクチャン
狙いどおりなんですかね
そこまで突き抜けてたら、かなり面白いと思う

次回からエンソニに恋する女優さん(名前忘れてスイマセン)登場しますね
ケジャンス監督の登場もドラマの雰囲気をガラッと変えた
面白くなる!と信じます

視聴者が喜ぶメローに走らない
あえて茨の道を選んだりしてませんかね
そういうの嫌いじゃないけど
つまんない日はつまんないし、(汗)
あ、これ褒めてます
視聴者に媚びなくてもいいよ
そいうドラマ好きです
だから私も、つまんないときはつまんないって言ってるし
でも
基本的に心意気を感じるいいドラマだと思ってます
こういうドラマを選んだミョンミンさんが
好きよ~♪

ドラマの帝王 "ドラマを通じて集まる欲望と群像たち..."   stardailynews
現実と虚構の境界で人間を圧縮して見せてくれる。

三人が道を行く途中で偶然に輝く石を発見した。一人はきれいな石だと感心して通り過ぎ。第二の人はそれを聞いてあちこち逃げつけてみて似合うと喜んだ。第三の人はそれを売ればどれだけ稼ぐことができるか計算をしていた。果たして誰が正しいのだろうか?

まさにそれが人間の欲望というものだ。夏の浜といえば、ある人は白い砂浜を思い浮かべるだろう。波の音とカモメと海の上を漂う汽船、そして夜には澄み切って暗くなった空に満開の星を考えて鑑賞に浸る。一部の人は白い砂浜を散策するビキニを着た女性を想像して満足してもよい。そしてまた一部の人はそこでパラソルを置いて浜を訪れた人々を相手に商売をする工夫をする。海は常にその場にそのまま残る。ただ人間の欲望が海と異なる意味づけをするだけだ。

人が似合うということだ。人が集まれば必然的に人が持つ欲望も集まる。別の欲望が交錯しぶつかる。どの方向を見て、なにがお互いを向いているかもわからない。政治とはまさにそのような人間の欲望を調整する技術である。人生とは苦痛であり闘いの連続だと言う理由でもある。別の欲望が共存する中で葛藤が生じ衝突が起きて、それを解消するための努力が後に従う。それが人生でありドラマだ。何を欲するか?何のための欲求か?何が欲望するか?「ドラマの帝王 」では、ドラマ 自体がその触媒となってターゲットになってくれる。

もちろんドラマがすべてではない。ドラマには100億という投資がつく。莫大な投資とそして地上波編成権がドラマに絶対的な力を付与する。誰かはドラマを通じて再度制作者として回復したくて、誰かはドラマを通じてお金と人気を得て望んでいる。また、誰かはドラマを編成する自分の権限を利用し、目的のバーを成し遂げようとしている。ドラマとは関係なく、ただドラマを制作する当事者に対する憎悪として、それを妨害しようとする人もいる。ドラマ自体の完成度だけを考えている作家の純粋さもある。まさにドラマが制作されて放送されている現場の話だからだ。ドラマを中心に生きて行く人だから莫大なお金が追い付く良いドラマは、それ自体で欲望の対象となってドラマの中心となる。

果たして新たにドラマ局長になったナム・ウンヒョンの意図は純粋なのか?もし彼の意図が純粋なら制作者が誰にせよドラマそのものを見ようとしたのだ。制作者であるアンソニー·キムの自分の判断はともかく後にしたまま、自分の権限で放送を編成するにはどのくらい価値があり、準備ができているかを考えただろう。ようやくシノプシスが出てきた作品と4回までの完成されたシナリオと主演俳優までキャスティングが完了したドラマが、ナム・ウンヒョンの選択は、ドラマではなくドラマを作る背景にあった。自分はそれが定義と思ってたのですが、それによって、アンソニー·キムを除いたドラマのための多くの人々の努力が正当に評価される機会さえ持たないまま無駄に危機に置かれていた。それを救ってくれたのがまたナム・ウンヒョンが座った席を貪る他の副局長たちの欲求である。どんなドラマなのかは全く関係なく自分の立場によってドラマの編成が決定される。アンソニー·キムは絶望した理由だったのか?

主演俳優でさえアンソニー·キムを困難させようとした。まだ準備も整っていないドラマを無理やり押し通して、手間を甘受しあらゆる努力を傾けてカン·ヒョンミンを取ろうとする。すべての試みが水の泡に消えると今度はは公権力を動員してドラマ局長を飛ばしてしまい、再び作家であるイ・ゴウンを騙して引き出そうとしている。イ・ゴウンが欲しいからではない。もしかしたら 「京城の朝」というドラマの台本もそれほど必要ではないのかもしれない。アンソニーへの憎悪だ。いやそれよりは嫉妬だろう。まだオ・ジンワンの内面には、アンソニー·キムに対する劣等感に沸いて上がっている。ドラマは手段である。

カン·ヒョンミンも同じだ。台本も見るとは思わない。演技もそれほど優れていない。しかし、演技はお金になる。ドラマはお金と人気をもたらしてくれる。多くのギャランティーとドラマの人気に比例して集まっファンと企業とのCF契約が彼を動かす。良い作品とは自分の人気に助けとなる作品だ。人気の助けがあればCF契約も押し寄せてくるだろう。俗物とはいえ彼の意図はそれほどや明確である。彼が俳優として生きていく理由もあるだろう。文字通り職業だ。多分カン·ヒョンミンこそ、真のプロフェッショナルなのかもしれない。この瞬間にも彼は制作者との関係や作家との義理なんて後ろ入ったままひたすら自分だけのために動いている。果たしてそんなカン·ヒョンミンとドラマの出会いはどのような結果をもたらすのか。

アンソニー・キムだけではない。むしろそのためにアンソニー·キムの持論に同意することになる。俳優にも利益を与える。放送局の関係者にも利益を与える。また、オ・ジンワンのような敵対的競争相手を相手にする武器でも視する。オ・ジンワンにあえて復讐しようとの目的でなくてもオ・ジンワンから自分を守るためにも、アンソニー·キムは成功していなければならない。生き残らなければ今後も継続してアンソニー·キムはドラマ制作者として現役で活動することができる。すでに自分が呼んだのスタッフや作家のためにも最低限の代償は支払うべきものであり、今後集まる俳優やスタッフにも十分な見返りが戻るようにしなければならない。作家個人の純粋など、アンソニー·キムには多数の欲望の一つに過ぎないかもしれない。子供のようだ。

莫大なお金が入る。多くの人々が参加する。ナム・ウンヒョンもドラマの視聴率が低ければ、それに対する責任を負わなければならないだろう。自分が主導して決めたものでなくても局長とそうだとの重大な責任を持つ場所である。ナム・ウンヒョンを圧迫してドラマを編成するように誘導した副局長たちもいる。アンソニー·キムが立てた"ワールドプロダクションの数少ないスタッフもいる。ややもするとカン·ヒョンミンという俳優の人生が終わってしまうこともある。会社が維持されて人々が食べて暮らすの後もドラマを制作して編成することが必要にドラマが亡びればそんな余力すら消える。アンソニー·キムは制作者だ。彼には責任がある。ドラマを成功させて関連するすべての利益が戻るようにする責任が。そのような約束を前提に、彼のロビー活動も成立することができるだろう。若造の作家かなんかいくらでも踏みつけることができる。ただ一つと残り全部、ほとんどの場合、後者を選択する。

無情に切ってしまったイゴウンを再呼び込むのも同じ脈絡である。ドラマ編成権を獲得するためにイ・ゴウンを容赦なく切り取った。しかし、また機会が与えられたとき、アンソニー·キムは、まずイ・ゴウンから復帰させていた。しかし、まともではない。ドラマの成功のために。高視聴率と間接広告などの収益を上げるために。イ・ゴウンの立場など全く気なしに監修を務める作家まで公然と雇っていた。あえて偽悪な姿を整えてながらイ・ゴウンを再呼び戻しの姿と対比される。結局一つだ。ドラマがイ・ゴウンを優先する。いやもしかしたらアンソニー·キムは自分よりも優先する。彼の情熱は誰よりも熱い冷たい情熱から始まる。

ドラマが面白い理由だ。ドラマ自身がパラメータとなる。ドラマ自身がドラマの中心となる。欲望が一つに集まる。異なる考えや感情と立場が集まって衝突して交錯し続く。あえてドラマの編成権を獲得するためにアンソニー·キムが副局長を見つけて社長を訪ね、ロビー活動をする理由はだったろう。欲求である。ドラマとは欲求である。ドラマが作られて編成され、さらにドラマを人々が見る理由も欲求である。アンソニー·キムはその欲望を貫く。そしてイ・ゴウンはその欲望を努めて冷遇している。数え切れないほどの仮面をかぶって人々がその欲望の上でダンスを踊る。半分はフィクションにかけた現実という背景の上に広がる物語の中で滑稽なピエロの踊りを踊る。

本格的にドラマの制作に入る。編成権を獲得した。投資金も入ってきた。残ったのは残りのキャスティングを完了して本格的にドラマを作り始めるだろう。敗者だ。残ったものには何もない。そんなアンソニー·キムが昔の貫禄で再起しようとしている。そんなアンソニー·キムと向き合ってイ・ゴウンが彼のそばを守る。オ・ジンワンの妨害が終わらないだろう。渡辺の脅威もこのまま終わらないだろう。ドラマが作られる過程とその背後の関係がすでに緊張を醸し出している。しかし重くはない。

よりによって駆け出し作家だ。ひよこでもない。まだ卵の殻の中でうごめくデビューさえできなかった新人だ。それだけ純粋だ。それだけ熱心だ。そんな作家に "京城の朝"のような皆が感心してやまない、誰もが切望警戒する作品が与えられた。その作品がアンソニー·キムという老獪した君主に与えられた。彼は奪われた自分の席を取り戻すことができるだろうか。アンソニー·キムの欲望とイ・ゴウンの純粋な情熱も対比される。アンソニー·キムの欲望とイ・ゴウンの純粋な情熱がドラマを通じてドラマチックにぶつかって壊れている。ドラマの中心である。彼らはドラマを通じて出会うことになる。二人の間の任意のポイントから。ドラマの主題と関連しているのだ。それがドラマをドラマとして完成させる。ドラマチックとは劇的という意味である。

視聴率は低い。しかしドラマの可能性まで低くはない。何よりも面白い。息を弾ませた事件が流れていく。キャラクターは普通だがドラマに最適化されている。本格的な話が始まろうともする。キム·ミョンミンとチョン·リョウォンだけでなく、チェ·シウォンの演技もまた、いつのまにか熟したようだ。キャラクターを憎らしいように立派に消化している。元々そんな性格なのだろうか?面白い。楽しい。
関連記事
Secret

TrackBackURL
→http://sutakora.blog37.fc2.com/tb.php/3993-6226b0c6