キム・タルジュン監督

<ペースメーカー>キム・タルジュン監督“ミュージカルと映画、リアリティーが違った  maxmovie

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映画<ペースメーカー>のキム・タルジュン監督の名前は不慣れではない。 だが彼は明らかに新人監督だ。 新人監督というには年齢もまた似合わないキム・タルジュン監督はミュージカル界で自他が公認する演出家だ。 17年の間舞台で<ヘドウィック> <スリルミー> <ダンサーの純情>、多くの作品を興行させた。
そのキム・タルジュン監督が忠武路に登場した。簡単ではなかったが彼は自分がしたいことのために果敢な選択をした。 あたかも自身が作った映画<ペースメーカー>の主人公‘マノ’のような話だ。
行く日が市の日という映画<ペースメーカー>の封切りは18日。良質の映画が正月に大きな課題を遊んで先を争って封切りをした。激しい勝負が予想される中で果たしてどんな成績表を受けるのか、ときめく胸で待つキム・タルジュン監督をマックスムービーが会った。

年を取って落ち着いてきた新人監督の誕生を控えています。 所感はどうですか?
年齢が少しいってるでしょ?(笑) それでも映画は初めてですから新人監督です。ミュージカルと違う映画という初ジャンルに恐れもあって興奮して快感もあります。

ミュージカルでは有名な演出者なのにあえて映画に挑戦する契機は何ですか?
映画の提案を受けたのは5~6年前でした。そうしていて2年後なのかサイダス キム・ミヒ代表様にも提案を受けることになったが二番目のような提案を受けるから真剣に悩みになりました。 その提案を受けて今年デビューまで4年、5年がかかりました。 映画をしなければと決心した理由は、遅くなる前に新しいものをしてみようという意味でした。年を取れば安住するようだし怖くなるとだめだと思いましたし。 それで最後の結論は‘犯してみて後悔することが年取る前に良くないだろうか’ということでしたね。

演劇映画科出身で映画の代わりに演劇を選択した理由は何だったんですか?
この頃には分かれている学校もあるのにその時は1学年の時演劇と映画を一緒に学び2学年の時分かれました。 その時は演劇がよりアナログ的で何より演劇と先輩たちが人間味があった感じでした。 映画は個人作業の感じで、演劇は共同作業の感じだといいましょうか? 幼かった時は似合って通うのが好きでしょう。 そしてカメラのようなメカニズムを通じないで顔と顔を向かい合って疎通することがさらに強烈だと感じました。

一般新人監督と違った道を歩いてきたことによるギャップはなかったですか?
自らの問題でした。 私があらかじめ話をして始めました。“準備はたくさんしたがわからなければ尋ねる。 返事を充実していてくれたら嬉しい。”静寂。 決定は私がすることだが分からないのをそのまま行くのは大変だと思いましたよ。 それで演出部によく尋ねました。私より年齢が若い友人でも、ドラマを見る視線が違うといってもその友人は経験が多いですから。 表現法や方法も尋ねて組合は私の役割だが分からないのは尋ねて接近しました。 そのためかギャップのようなもの感じられませんでした。

映画がうまくできなくてもミュージカルをすれば良いから信じるものがあるという考えもありそうです。
さらに難しいようです。 映画がうまくできなかった時は俗っぽい話でしておいたのもみな崩れるんです。 冗談で“もしかしたら戻ることもできないが?”と話したりもした。 かえってさらに負担です。 興行と作品的に満足でない結果を受けた時戻った時申し訳ないのもあって、自らにも不満足です。

そうじゃないようだが舞台、スクリーンと進んでブラウン管まで厳然な警戒が存在するでしょう?
大いに違います。個人的には映画監督をする方々も公演演出されたら良いし、公演演出をする方々も映画をしたらいいですね。 映画<ビリ エリオット>の、スチーブン タルトゥリ監督が演出したミュージカル<ビリ エリオット>は本当びっくりするほど良かったんですよ。 もちろん<アバター>のような映画をミュージカルですることにはならないでしょう。 だが、表現方法が違う乞食の話を持って疎通するのは全く同じでしょう。 映画監督をなさったの方が公演をすれば明らかにシナジー効果もありそうです。

ミュージカルと映画、両側を演出してみるとどんなものが違いましたか?
公演は観客と俳優が顔を突き合わせて見たらリアリティーから自由です。 俳優が実存するので美術的なセットと照明などに暗黙的な約束や公演の方法より省略が可能なことでしょう。 その圧縮が上手なほど良い作品と認められる場合も多いです。 映画はそのことがならないでみるから周辺に対するリアリティーを生かすのが最も大変でした。 特にマラソン映画だから走る俳優も大変でスタッフも大変だがそのように通り過ぎる背景を描くということも苦痛です。 単純に公演が1個の単一セットに行くならば130シーンの映画は130個の舞台セットを準備すると覚悟しましたね。 それでも過負荷がきましたよ。 舞台は私たちが思いのままに作れば良いのにハンティング場所は私の心のままに作られていないですから。

そのように作ったデビュー作がスポーツ映画です。ベテラン監督もひとまず避けて見るというスポーツです。
このように大変なジャンルかわからなかったということです。それでも明らかに魅力があります。ロンドンマラソンを再現するためにロケに行く前にコース組もうとしてGoogleマップを一ヶ月間見たが難しいが面白かったんですよ。 笑わせたのはそのようにロンドンに到着したがあたかもしばしばきた町内のようだったんですよ。 そしてマラソン映画なのでさらにおもしろかった部分もあったことのようです。 真の単純でアナログ的で原初的なスポーツです。人話すのに良いジャンルでしたよ。 もちろん次にスポーツ映画をと言われても、そうするつもりがないです。

現場ではどんなスタイルの監督だったか気になります。 ペースメーカースタイルでしたか?
ミュージカルと類似してるようです。 曲がって捉える時はぎゅっとつかんだりもしたが調整側にフォーカスを合わせました。 ミョンミン氏とは作品に対してミーティングもたくさんして話をたくさんしました。 現場では‘私たちがした約束とさらに上手に出来る方法が何か’と考えましたし。 そして誰をぎゅっとつかむことができる天気と環境的な要件にならなかったですね。 あまりにも大変だったんですよ。 それでも私は運が良いことのようです。 ミョンミン氏、アン・ソンギ先生、アラ氏は誠実で約束に対して徹底してとても論理的な方々です。 互いに論理あるように話して合う側に調整したのでよく流れて行きましたし。 またミョンミン氏とアン先生とあまりにもおもしろいスタイルなので現場が本当におもしろかったです。

個人的にはキャスティングが皆成功的だったようです。 リアリティーがなかったとすれば映画は新派になるか感動が少なかったりしたのに俳優が写実的に演技しました。
俳優と演出家として開始から話を交わしましたよ。 ジャンルごとに違うが<ぺースメーカー>には俳優が見えれば不便なこともあると考えました。 アクション映画の場合が俳優が見えれば良いが、話を伝達するところにあってはキャラクターがよく示す必要がありましたよ。

ロンドン ロケーションを選択したのも結局リアリティーのため?
最も大きい負担感中一つが実話ではないとの点でした。 <国家代表>も<私たちの生涯最高の瞬間優生順>でも<マラソン>でも全部実話じゃないの。 スポーツ映画なのに実話ではないというのは長所もあるだろうが盲点がより大きいと見ます。 シナリオ5でチェインが入った時が広州アジア競技大会の時だったが過去競技を行って話だけ聞けばさらに致命的でした。 それで提案したのは大邱陸上選手権大会でした。 ところでそれも封切り時点を確かめてみるとすでに過ぎた競技で、それでロンドン話が出てきたのです。事実提案は誰でもできるが制作会社と投資社が受け入たことを感謝します。

結局ロンドンシーンは必ず必要な場面になりました。それでも全体ランニング中20分を割愛するのが容易な選択ではなかったようです。
それなりにマラソンを最もおもしろく見せることができる方法を選びました。 20分分量が序盤には15~20キロまでペースメーカーを見せながらマラソンを中継のように照らしました。 そうするのに航空撮影もたくさん入りましたし。 その次には万戸側にカメラを付けて彼の話しを書きました。 最も骨を折ったのはその20分の編集でした。 分量がものすごく出ましたよ。 編集技師さん話では映画一本編集することと同じ苦労だと話しましたよ。 だが、ロンドンのために作品の前の部分が退屈なこともあったことのようです。 ‘前のテンポを減らそう’という提案もあったが、前の速度感を上げれば後方のロンドンマラソンが退屈なこともありました。 映画の多くの物量と話の重要事項を入れたロンドンシーンであるから全体的な調整をロンドンを中心に行った部分があります。

映画に大きい行き過ぎるということがないという考えです。 俳優たちの演技から叙事まで均等分配された感じですが。
一番難しかったんですよ。 ただ<ペースメーカー>だけの悩みではなくて公演をする時も常に抱いて行った悩みですが。 最も効果的に均等分配された結果を出したことでしょう。 なぜ葛藤がないです。 個人的なスタイルではもう少し抜きたい欲もあります。 作為的という話が出てくるほどのシーンもあって、もし公演側ならばさらに抜こうと語ったことのようです。 だが、映画の場合には私よりさらに経験が積もった人が、そして彼らに蓄積されたデータがあったので信じて行ったことでしょう。 ミョンミン氏も大変だったでしょう。 最初から新派だったら分からないが限度を越さなくなって行こうというから難しかったんですよ。リアリティーを損をしてあまり豊かでない地味な演技になったでしょう。

決勝点が存在するだけにハイライトにあるような明らかな装置も心配になりました。
最も悩んだ部分です。すでに二種類の部分が作為的という話が出たりもします。 真っ赤な傘シーンとメインスタジアムシーンです。 私も悩みが多かった部分だが私が不便だといって抜いてしまうことはできない場合もあります。 結局商業映画は大衆親和的であってこそするという考えもあります。 状況によって作為的な部分という考えはしながらも避けることはできなかったんですよ。

音楽にあえてラクサウンドを入れた理由があるんですか?
音楽的なコンセプトを定める時大きく捉えて行ったことは一つでした。マノが情緒的な表現をする時はストリング系列を使うが、走る時だけはエレキに行こうということでしたね。 走るという図を考える時エレキが持つ攻撃性と鋭さがあるでしょう。 飛ぶ部分といっても押しつけたかったです。マノにかかっている時だけは強さを与えたかったです。 最も上手にして好むのをする時だけは楽器で助けたい心でした。

時代の無数のペースメーカーを代弁するだけにエンディングに対するジレンマも相当あったようです。
私ができる最高の結末でした。

結局ペースメーカーも動機により幸せなことではないでしょうか? マノも弟のペースメーカーとして幸せだったのではないですか。
幸せだったんですよ。 走ることができて幸せだったし、弟を世話することができて幸せだったんです。 他の人が社会的に“君はペースメーカーだ。”と話をするから垣根が消されたことだった本人ではなかったでしょう。

この社会のペースメーカーに対する監督様の考えは何でしょうか?
マラソンのペースメーカーを選択して話にしたが、事実皆がフェースメーカーじゃないの。 肯定的だ否定的だがでない生き方のようです。実際に助力者なしで何かを成し遂げられる世の中でもないでしょう。ただ惜しいのは助力者に対する価値評価をしないことが不便な真実です。 1などが出てくるためには助力者が必ず必要だったものだがこの社会で助力者は無視されます。 どんな面で見れば皆が助力者なのにですね。 矛盾であることのようです。 映画を見られた方中にも“マノがとても優しくてバカだ。”と話す方があります。 事実<ペースメーカー>が話そうと思うのがそれであるようです。 優しいのがなぜバカでしょうか? その人は自身のスタイルのとおり生きていくことだけなのにバカだと話すのはならないでしょう。 それが理解できない部分です。 正当に待遇受けなければならない人々だというんです。 自分のために走ったし、自分の弟のために走るのになぜバカみたいかよく分からないです。 生きる方法を置いて評価をできないようです。

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